花火大会が終わり、チャリでのんびりと家へ向かう道すがらの、何気にゆるい風景です。祭りのあとの静けさと心がそぞろ立つような蒸し暑さに包まれた街。レゲェが似合いそうなそんな夜に、真夏は始まっていました。
今年も踏切の季節がやってきました。青い空にポッカリと浮かぶ白い雲。黄色と黒のシマシマ模様に、生い茂る路傍の草色。目にも鮮やかな夏色の踏切。灼けたタールの匂いが、そこはかとない旅情さえ漂わせます。
最高気温25.5℃、一応晴れ。夏以上真夏未満というビミョーな天気だった27日。はっきり言って、夏の成分がまったく足りません。そんなとき重宝するのが夏色レンズ。不足しがちな夏も、これ一本でバッチリ補えます。
榎本武揚没後百年記念事業として、東京から江差・小樽まで開陽丸の足跡を辿る、全長52mの小さな帆船、「あこがれ」。宮古から乗船したセイル・トレーニングの少年少女を乗せて、26日午後4時、無事函館に到着です。
鏡のない井戸の中、幸せな蛙として暮らした日々は遠く、楽園を失い、プラタナス咲く道を振り返らずにただ一人、三歩進んで二歩もどる、嗚呼素晴らしき哉人生。その時感じたことを言葉にすれば、多分そんなところです。
7月20日の午後、わずか3時間ほどの間、奇跡のように陽が射しまくった湯川海水浴場。海青く波穏やかな夏の贈り物に、みんな大喜びです。こんなホーリーな時間を提供してくれた気まぐれ天使様。グッジョブです。
家路を急ぎながら、落ちてこないのが不思議なほどの雲に、思わず目を奪われた夕暮れどき。さて、何という雲だったでしょうか。憶えていたかどうかも憶えていない遠い記憶に、いっそ、新たな名を授けることにしました。
なんの変哲もない本町交差点の風景。よい子は何をマネしちゃいけないというのでしょうか。ヒントはこの写真の中に隠されています。マネとかモネとかドガとかを思い浮かべた貴方。かなり正解からハズレてます。
大体が朝から晩までモニタの前で唸っている私ですが、たまに、制作や撮影以外の理由で外出することもあります。先日、帰り道に、こんな廃屋に辿り着いてしまったのは、いったい何のお導きだというのでしょうか。
振り返って初めて気付く事があります。たとえば、夏が始まった日、とか。これからが真っ盛りの季節に振り返りモードは早すぎるのですが、その日、夏の初めが終わりを迎えていたことに、つい先ほど気付きました。
季節の女神が住む湖に四季を落っことして、「あなたが落としたのは・・・」などと尋ねられたら、「夏、夏、夏、夏」と答えます。夏以外は湖の底に置きっぱなしでOK。そんな夏の、夏たる条件を、三つ挙げてみましょう。
間もなく海開き。湯川海水浴場のオープンまで、あと三日しかありません。なのに、こんな天気で良いのでしょうか、いいわけありません。そこで、夏を忘れがちの夏に、夏のなんたるかを見せて、夏の自覚を促すことにしました。
東海の小島の磯の白砂に、なんとなく集まっていた少女たち。蟹も泣いて逃げ出すほどのパワフルさだったんですが、なぜか自称「たそがれている少女」。というわけで、ご希望どおりに撮ってみました。
男の子にとっては、アイテムゲットのイベントに変わり果てた七夕ですが、織姫と彦星のエピソードは、今も昔も、娘心のツボを押しまくるようです。星に願いを。少女たちは、短冊に、どんな思いを託したのでしょうか?
五稜郭駅から汐首岬までの戸井線跡、およそ25kmの道のりを、チャリで探索しました。さすがに道草をこく余裕はありませんが、色鮮やかな七夕飾りが並ぶ軒先を、素通りすることなど、私には不可能なことでした。
旧戸井線探索に出かけると、決まって途中で引っかかってしまい、まともに目的地に着いたことがありません。要注意ポイントは分かっているのですが、分かっているからこそ悩ましいという事情もあったりします。
歴史的建物と呼ばれることもなく、黙々と時間を重ねてきた校舎は、一見ボロボロですが、近くで見てもボロボロでした。でも、背筋をピンと伸ばしたような”かくしゃく”っぷりは、晴れわたる青空のごとき清々しさなのです。
旧タワーに登ったのは大昔にたった一度だけなのに、新五稜郭タワーにはすでに数回。その違いは「高さ」にあります。眺望の差ではありません。それは被眺望、つまり「どれだけ見られているか」の差といえます。
ようやく初夏らしい日が訪れました。街角を彩る植え込みも「赤く」衣替えを済ませ、夏らしさを盛り上げます。ここ最近、函館の夏の色と言えば「赤」だったのですが、それは案外とこんな理由なのかも知れません。