徒然的事柄コラム 2006年1月19日
003冬の金ピカ寺
娘が撮ってきた黄金色の写真にボーゼンとする
ウチの奥さんと娘が冬休みを利用して京都へ行ってきた。小雪舞う古都はとても風情があって、それはそれは良かったらしい。大昔、大阪万博のオマケと修学旅行の付属品で京都を訪ねたことしかない私=留守番オヤジにしてみりゃ「良かったね」と言うしかない。○○寺とか△△寺だとか□□□院だの言われてもさっぱり分からず、適当に相づちを打つばかり。娘が撮ってきたデジカメ画像も、まるでサンパウロの日本人街─とは思わなかったが、記憶にない、あるいは憶えていない風景はどちらかと言えば異国に近く、どうも今一つピンとこない。だが、ひときわ光芒を放つコテコテの金ピカ寺だけは、さすがに別格だった。
ひと目見れば誰だって分かる【富と権力】
金ピカ寺とは言うまでもなく金閣寺のことである。が、モニタに映し出されたメモリカードの画像に思わず私は唸ってしまった。我が目を疑うほど隅々までピカピカのコテコテ。金スプレーを吹きまくったミニチュアというか特撮セット状態である。娘に渡したデジカメは青味の強いやや彩度の低い画像が特徴だ。それが色補正なしで金ピカの極みなのだから、実際の眺めたるや、さぞかし鮮烈ゴージャスきわまりない山吹色だったことだろう。
それにしても、どえらくインパクトがあって実に分かりやすい。
多くの外国人に人気が高い理由も、非常によく分かる。そのまばゆさが発するメッセージはシンプルだ。あまりと言えばあまりの明快さ分かりやすさ。そりゃ世界中の誰だって一度見たら忘れられないだろう。
良く分からないのは、一度はこの目で見たはずの金閣寺をちっとも憶えていないことだ。遠い昔の修学旅行の話とはいえ、栄華繁栄の象徴とも言える絢爛たる御姿を、今なら一度目にして忘れることなど絶対にないだろう。
金(カネ)の重みを身にしみて感じる今なら絶対に。
軽佻浮薄さの裏に見え隠れするメッセージ
と、ここまでは2006年1月分。およそ2年たった今、思うところはちょいと違う。あのゴージャスさの実体─数ミクロンにも満たないペラペラの金箔という皮膚─の煌びやかさに込められた本当の意味。遠慮も慎ましやかさもかなぐり捨てた「オレこんなに金もってるんだぜ!」というメッセージのあからさまな軽佻浮薄さに時の権力者が─それが限りなく亡者のごとき権力者だっとしてもまったくのバカじゃあるまいし─気が付かないはずがなかったのではないかという疑問。煌びやかな皮膚に目を奪われがちだが、その実体は精緻な木造建築技術と、極限まで薄くのばした金箔の製造・施工技術と、それを成し遂げた人々の意志と技量の集大成だ。
あまりの潔いバカ殿っぷりにまんまと騙されているのではないだろうか。もしかすると、金閣寺のコテコテのゴージャスさは、誰かを謀るための精緻な「スタジオセット」だったのではなかろうか。そう考えると金閣寺への印象も変わってくる。
人を人たらしめ人をして人と識るは皮膚をおいて他なし
所詮人は見かけが一番。というか、ほぼど真ん中直球の一発見た目勝負である。俗世の極みに徹するその吹っ切れ方を垣間見るに、世界最速のインディアンにも通じるシンキング・ポジティブな生き方が感じられてやむない、などという電波を受信している今日この頃である。
(2006年1月19日 加筆修正:2007年12月23日、2008年10月11日)