北水祭─北大水産学部の学園祭で出会った「美味しさ」
11月2日の日曜日、12時半頃。北大水産学部の広いキャンパスの一角にある厚生会館。第47回北水祭(北海道大学水産学部学園祭)の模擬店の一つ「IFA KITCHEN」には、留学生手づくりのお国自慢的料理が並んでいた。チャプチェ、水餃子、中華饅頭、茶玉子、ケーキ、カレーなどなど。とても美味しそうなお国自慢の料理を前にして、おそらく作った本人なのだろう、留学生たちのチャーミングな笑顔が出迎えてくれる。数あるメニューの中でも目を惹いたのがウガンダ風ベジタブル・サモサと、隣のテーブルのタイラーメンだった。
それらを食べ終えて空になった使い捨て食器を前に、私は軽く会釈をしながら思わず呟く。
「ごちそうさまでした。」
そして、両手の平を胸の高さよりやや上で合わせながら──ごく自然に合掌をする。まるで托鉢僧のように。そんな自分が、少しばかり意外だった。
確かにけっこう美味しい。ありふれた素材がこんな料理になるのかと思うと楽しい。予定外の場所で想像以上の味に出会うとはまったく予想していなかった。そんなサプライズも理由のひとつかも知れない。でも、冷静に考えると「ずば抜けて美味しい」わけではない。食べ終えて素直に手を合わせてしまうほどの美味かと言えば、けっこう疑問が残る。なのに──随分と破格な扱いだな、などと我ながら思うが、「同楽舎(どうらくや※1)」で担々麺をいただけば自然とそういう気分になるし、宮島で焼きたての牡蠣を食べた時も思わず合掌してしまった。(牡蠣が一個多く入っていたからか?)しかし、実際のところそれは少数例である。自分で言うのもなんだけど、そんな自分、素直すぎて自分じゃないみたいだ。「今手をあわせた私は誰」ってなもんである。私であって私でなくそれでも私だとしたら、私は何か電波でも受信していたのだろうか?
ごちそうさまと素直に手を合わせてしまう満足感のレベルとは
幸い私は電磁波や念而波(※2)の類を受信出来るほど感度が良くないし、信心深い方でもない。何かの信者ではないので当然だが、困った時を除いて指を組んで神様に祈ることもないし、メッカに向かってコーランを唱えることもない。葬儀などで世間一般レベルの仏教徒を自覚することはあるが、それは信心よりも嗜みに近い。だから食後の嗜みとして「美味しい食事をありがとう」と合掌しても不自然ではないが、恥ずかしいほどの素直モードでのそれは希少である。よほど満足したらしい─己を人ごとのように評しながら、過去、満足レートの高い食事を脳内でググってみた。すると──
満足度は過去最高レベル─ラーメン屋部門で歴代四位?
するとラーメン屋というキーワードでは3件見つかった。先代が生きていた頃の「三平」、札幌のラーメン共和国「初代」、谷地頭電停前の「同楽舎」である。いずれも今回の「満足度」を上回っている。「初代(札幌)」はほぼ互角だろうか。意外な結果に自分でも驚いたが、歴代の「総合的満足度」としてワタシ的には正しいアウトプットだ。検索範囲を「食事すべて」に広げるとさすがに満足レートの高い食事が多い。それでも思い出深い「タクト(※3)」の納豆定食やしょうが焼き定食と同等あるいは上かも知れないし、比較対象を「心にひびく外食部門」(なんじゃそりゃ)に絞ると、相当な上位に食い込んでいると思う。総合的に鑑みても、今回食べたサモサとタイラーメンは歴代的高ポイントな食事(外食)であることは間違いない。ありがとう「IFA KITCHEN」。
満足したかと言えばイエス!だし、また食べたいかと言えばイエス!!である。ただ、美味しいかというとそれほどでもなく、美味しくないかというと断じて違う。なんだか良く分からない。正確に言うと分かりかねる。高い満足の理由を説明できない。説明しようとしても、何かサンマの小骨のほどの引っかかりを常に感じる。感じるのだが正体が分からずモヤモヤとする。そんな得体の知れないムズムズ感と、深い満足感の二つを同時に感じつつ、私はその場を後にした。というかその場を後にするしかなかった。それに、サンマの骨ならほっといても大丈夫だろうし。
──その時はそう思っていたのだが。
冷静に振り返れば─振り返ってもわからない満足感の理由
数日後、本コラムの写真を選びながらつらつらと振り返る。本場のサモサにタイーラーメンと言っても、特別な材料を使っているわけでも見たこともないような調理器具や方法を駆使しているわけではない。素材や調味料の調達先は魚長(近所のスーパー)っぽいし、味付けも想像の範疇に余裕で収まっている。美味しいけれどベラボーに美味しいわけでもないし、驚異的に安いわけでもない。学生たちを含め会場の雰囲気もとても良かった。とはいえ、素晴らしい「もてなし」も、美味しさを決定づけるほどではない。せいぜいタイラーメンに入っていたゴーヤの有無程度だろうか。それと、補足しておくが腹ペコだったわけでもない。なのにここ数年の外食の中でもダントツに高い満足度。
──考えれば考えるほど、理由が分からない。
結論は出せないという結論─今はそれで良いのかも知れない
数ヶ月前になるが、某コンクールで金賞を獲得した某料理店の凱旋メニューなるものをいただく機会があった。通常ならコース形式で供されることが珍しい、そんな類の料理をフルコースでサービスするという、かなりの意欲とパワーと何より腕を持った料理人たちによる、文字通りの饗宴だったのだが、残念ながら私には幸せな気分になることが叶わなかった。美味しくないわけではない。むしろ、美味しかった。店のサービスも上々だしスタッフの好感度も高い。素材も調理方法も味付けも上手だし丁寧だし、何より一皿一皿に、これでもかと言わんばかりにほとばしるほど才気を感じた。だから──ただただ恐れ入るしかなかった。
とても美味しいのだが、満足からほど遠い。実際、それほど落差の激しい食事に巡り逢うことは希だと思う。思うのだが、マーフィの経験則どおり、巡り逢うときには巡り逢ってしまうものだ。それなら、とても美味しくなくて、つまり不味くて、それでいて満足する食事があるのだろうか。幸い私にはそのような経験がないけれど、さすがにそんな矛盾だらけの食事はなかろうと思う。なぜなら、美味しい食べ物とは満足出来る食事のためのプロセスで、満足出来る食事というアウトプットがすでに導き出されているならば、そこに至るプロセスはすべて美味しい食べ物なのである。などと、分かったような分からないような結論になってしまったが、白状しよう、結局良く分からないのだ。分かっているのは美味しさとはチェシャ猫のニヤニヤ笑いのようであること。
かえって分からないか。
ともあれ、今回、美味しさと満足度の相関関係については保留だ。今はそれでいいと思う。生きている限り食事があるわけだし、今しばらくは生きていると思うので、あらためて語る機会もあるだろう。さて、それでは小腹も空いたことだし、ちょっとラーメンでも作ることにしよう。
ただしカップ麺だが──。 (2008年11月10日)
【脚注】
※1 同楽舎(どうらくや) 函館市谷地頭町、市電谷地頭電停前の担々麺専門店。
※2 念に基づく形而上学的なエネルギー波を意味する本コラムのために考えた造語。
※3 東京都江戸川区西小岩に現存する伝説的大盛定食の喫茶店。