札幌駅、夕刻、乗車までの時間。腹が空いていたし、財布の中身に問題もなかったが、入ってみたい店も、これといって食べたいものもなく、無闇に歩き回っては時間だけが過ぎて行った。
口にしたいものがなかったわけじゃないが、頭に浮かんだものといえば一個10セントのパンに20セントのソーセージ、それを流し込むのに必要な50セントのビールぐらいなもの。日本円で100円にも満たないショボい「食事」だが、1万キロ離れた「Pingo Doce」まで足を運ぶわけにも行かず、何を買うでもなく、どの店に入るでもなく、食べるものを決めかね彷徨うこと1時間半、結局もういいやと改札口をくぐり、ホームの片隅の立ち食い蕎麦をぼうっと眺め、ふらふらと歩を進め、いささかの逡巡ののち蕎麦を、いつもなぜかの月見蕎麦を注文する。
おそらく20年ぶりであろうそれは、しかし何の進歩も退化もない、紛うことのない駅の立ち食い蕎麦であり、すなわち、最初から伸びている麺、最小限のコクと旨味という、少なくとも半世紀は変わらぬショボさだったが、これが存外に美味いこともまた半世紀ほど変わっていなかったりする。
美味しいというか、まあそれは飢えが満たされる時の充足的なウマさなのだが、腹だけではなく心までほっこりと満たしてくれるのは、決して気のせいなんかじゃない。
蕎麦というより蕎麦的な「糧」というポジションを良しとし、人に媚びず、時代に媚びず、ショボさの欠片も隠そうとしない堂々たる態度。ボロは着てても錦な心意気がビンビンに伝わってくる…ような気がする。臆面もなく「美味」だの「こだわり」だのを標榜する二流のラベルばかりが跋扈する時世にあって、一流のガーシュイン(のような存在で)あり続けてきた立ち食い蕎麦にこそ惜しみない拍手を送りたい。何ならスタンディング・オベーションとセットでも良い。
立ち食い蕎麦フォーエバーである。
願わくば、この世界のどこにでもある片隅に、立ち食い蕎麦という一流が、いつまでもあり続けてくれんことを。
2009年10月13日 JR札幌駅の立ち食い蕎麦にて
Panasonic Lumix LX3 1/25秒 F2.0 24mm(35mm換算)